はたして耳が聞こえないことは不便でしょうか?
この問いに健常者の多くはイエスと述べるかもしれません。しかし聴覚障がい者の側に立って考えてください
手話を使いこなして「話せる」彼等は、耳が聞こえないこともまた個性と見なしているのです。
今回は聾者の言葉を代弁する手話通訳士を主人公にした社会派ミステリー、丸山正樹「デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士」をご紹介します。
「デフ・ヴォイス」あらすじ
主人公はシングルマザーの婦警と交際している中年男性・荒井尚人。
再就職活動が上手くいかず、ハローワークの担当にも「何か特技はないの?」と言われてしまいます。
そこで尚人は自らが育った特異な環境と、それ故身に付けざるをえなかったある特技を思い出しました。
尚人はコーダ……即ち、聴覚障がい者の両親から生まれた聞こえる子だったのです。
尚人がすぐ特技を申告しなかったのは、両親と兄が聴覚障がい者の一家に生まれ、物心付いた頃から疎外感を味わい続けてきたのが原因でした。
家族で唯一「耳が聞こえること」がコンプレックスになっていたのです。
不本意ながら手話通訳士となり、行政手続きや生活面で聾者の手助けをしていく尚人。
渋々始めた仕事ですが、元恩師や個性的な聾者の依頼人と交流するうちに徐々に考え方を改めていきます。
ある日尚人に聴覚障がいの犯罪者を支援するボランティアグループが接触してきました。
グループのトップはまだ若い財閥令嬢。彼女が尚人に持ち込んだのは意外な依頼でした。
今度は私があなたたちの“言葉”をおぼえる。荒井尚人は生活のため手話通訳士に。あるろう者の法廷通訳を引き受け、過去の事件に対峙することに。弱き人々の声なき声が聴こえてくる、感動の社会派ミステリー。
仕事と結婚に失敗した中年男・荒井尚人。今の恋人にも半ば心を閉ざしているが、やがて唯一つの技能を活かして手話通訳士となる。彼は両親がろう者、兄もろう者という家庭で育ち、ただ一人の聴者(ろう者の両親を持つ聴者の子供を”コーダ”という)として家族の「通訳者」であり続けてきたのだ。ろう者の法廷通訳を務めていたら若いボランティア女性が接近してきた。現在と過去、二つの事件の謎が交錯を始め…。マイノリティーの静かな叫びが胸を打つ。衝撃のラスト!(「BOOK」データベースより)
著者 丸山正樹 出版社 文藝春秋 発売日 2015年8月4日
「デフ・ヴォイス」ネタバレ感想
「デフ・ヴォイス」シリーズは丸山正樹の代表作。ミステリー要素もありますが、むしろヒューマンドラマの色合いが強いです。
目が見えない、耳が聞こえない、立って歩けない……フィクションに登場する障がい者は悲劇のヒロイン、またはヒーローとして扱われがちな風潮がありました。
それは現在も変わっておらず、障がい者イコール不幸で可哀想とステレオタイプに結び付ける話も多いです。
本作における聴覚障がい者は、一個の人格と尊厳を持った存在として描かれていました。
彼等は自分たちを聾唖者にあらず、聾者と称します。聞こえなくても喋れないわけではないからです。
本作を読んで初めて、聴覚障がい者が用いる手話に日本語対応手話と日本手話の二種類あることを知りました。
日本語手話は日本語の一音一音にそれぞれ対応させた手話、日本手話は聾者独自に発展したオルタナティブな手話。聾者の間では後者の方が主流だそうです。
主人公の尚人はコーダでした。
自分以外全員が聴覚障がい者の一家において、彼が幼少期から味わってきた孤独は計り知れません。
マジョリティと健常者は同義ではなく、仮に聴覚障がい者の方がマジョリティな環境なら孤立するのは前者なのです。
本作は健常者が見落としがちな、あるいは全く知らなかった聴覚障がい者の現実を教えてくれました。
健常者と障がい者、両者と接する中で頑なだった尚人の心が徐々に氷解し、家族作りに前向きになっていくのも泣かせます。
シリーズ刊行に伴い時間も経過するので、ぜひ荒井一家や周囲の人々の成長を見守ってください。
「デフ・ヴォイス」見どころ
「デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士」は、ジャンル的にはミステリーに分類されますが、ヒューマンドラマとしても一級品。
読んでいるうちに自分の視野がいかに狭かったのか気付かされます。
モラハラ、DV、ストーカー……世間には名前が付いて初めて可視化される問題がたくさんあります。「コーダ」も名付けられる前は存在しない子として扱われていました。
もし健常者がマイノリティになれば、差別されるのは聞こえる人々です。
尚人の苦悩や葛藤はその命題を否応なく読者に突き付け、両者が歩み寄るることの難しさ、それでもコミュニケーションをとろうとすることの大切さを教えてくれました。